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*赤とんぼ通信 vol.7 '03年9月8日発行から

山田孝さんの追悼会を催すことになりました。森本忠紀


 山田孝さんは1972年、連合赤軍事件で犠牲となった12人のうちの一人です。山田孝さんゆかりの方に別掲のような案内をお届けしておりますが、山田さんを直接 ご存知でない方々にもこの「追悼会」を認知してもらいたくて、私はこうして『赤とんぼ通信』の記事として取り上げ、その趣旨を理解していただこうと考えました。

 直接のお知り合いではない方、あるいは中には当時まだ生まれてなかった方までおられますが、そのような方々も含めて、この「追悼会」開催を広く知っていただきたいと願っていますのが、その理由は大きく分けて2つあります。

 その第一は、連合赤軍事件で犠牲となったメンバーはいまだに社会的に供養されていないということです。

 連合赤軍事件が起きた時、誰も彼もがびっくりしました。いったいなにが起こったのか、なぜまたそのようなことが起こったのか、真相は解明されないまま、連合赤軍への批判、糾弾、論難の嵐が吹き荒れ、日本国中が大揺れに揺れました。犠牲となって亡くなったメンバーはその渦中まっただ中で、死を悼まれるどころではなく、 みたまが安んじられるいとまもありませんでした。現在に至るまでそのままであります。

 死んでなお、許されてないのが、連合赤軍事件犠牲者メンバーであります。遺族の心痛はいかばかりでありましたでしょう。愛する息子を娘をその一番若い真っ盛りの時期に、この上ない悲劇的な死に方で失い、死してなお、胸に抱きとめることはおろか、話題に上げることすらありませんでした。

 気持ちを察する周りの人達は「そっとしておくのが一番」という以上の気遣いをできなかったのが、この30年間であったろうと思います。

 このような状態がいつまでも続いたままにしておいていいのでしょうか。私はとてもそう思えません。

 日本には古来、死んだ人は神・仏として、たてまつる考え方・習わしがあります。それは人間には神・仏と比し得る尊い命が宿っている、何人によっても決して侵されてはならない、また侵すことのできない大切なものによって、一人ひとりの人間は成り立っているとする考え方だと私は理解しています。またその尊さにおいてはどんな人間も平等であるということです。私はこのように美しい習わし・考え方が日本社会で長きにわたって形成され、継承されてきたことをうれしく思うとともに、なおこれからも大切にしていきたいと願っています。

 今をさかのぼること30余年。その頃は「激動の時代」と呼ばれておりました。多くの若者が革命の理想に燃えており、御多分に漏れず私もその一人でありました。山田さんとは、同じ大学で、同じ政治運動グループに属しておりました。私は当時も今もそうですが、アト先考えずに突っ走ってしまう傾向があり、世の中のことが何もわからない未熟者のくせして、大学へ入った初年度から、いきなり、将来は革命家として生きるんだと強く思い込むようになりました。程なく組織絶対の活動というものに限界を感じで、私は大きな壁にぶつかりますが、さりとて何をすればよいか、皆目見当がつかず、悩み多き日々を送ることになりました。

 1969年に赤軍派が結成され、私は赤軍派には行きませんでしたが、その動向には大いに関心を寄せいていて、「赤軍派がなくなったら、世の中真っ暗闇よ」とそんな祈る思いで、新聞記事を追ったりしていたことを今もよく覚えております。

 連合赤軍事件が起こった時、私はびっくりしましたが、びっくりした割には、ことの深刻さや重大さわかっていませんでした。そのうちに自分もある程度の年齢になって、連合赤軍のメンバーというのは、何という若さで逝ったんだろうと、その犠牲の痛ましさを思うにつけ、年々強く気にかかるようなりました。

 坂口弘さんの獄中の短歌が新聞に載るようになって、私は大きく心動かされました。自分が手にかけて仲間を死に至らしめたその罪に、彼はおののいていました。苦しみ抜きました。その苦しみがそのまま歌に詠まれていました。

   「総括されて死ねるか、えいままよと 我は罪なき友を刺したり」

 坂口弘さんの短歌に触れることで私は連合赤軍事件を内側から見ることができるようになりました。その時からです。連合赤軍事件が他人事でなくなったのは。

 連合赤軍事件が起きた時、私はあの山岳アジトにいなかったし、メンバーでもありませんでした。しかし、それは、連合赤軍と同じ過ちを犯さずにすむような正しさを私がいささかなりとも持っていたということを意味するものでは決してありません。したがって連合赤軍の過ちを指摘されれば、それは私のことです。リンチによる仲間殺し、そんな、あってはならないことが起こりました。どうして起こったのでしょうか。起こってしまう弱さが連合赤軍にあったからです。防ぐことのできない弱さが、連合赤軍にあったからです。同じ弱さを私もまた持っておりました。あれほどおぞましく、恐ろしいできごとであったにもかかわらず、私は無縁とは当初から思えませんでした。状況しだいでは同じことを起こしてしまう弱さが私の内部にあることを私は知っていました。そんな強さは身につけてはいませんでした。

 あれから30年、それでは、その弱さを私は克服できたのでしょうか。過ちを繰り返さないとは残念ながら私は言うことができません。私は今なお、真理を求めております。正義を愛しております。そして連合赤軍の過ちを自分の過ちとして認めておきながら、それでもなお、過ちを克服しきれない自分がいます。

 というよりは“過ち”を自分とは無縁のものとして排除することができないという方が正確です。取り返しのつかない過ちを自分はいつ何時犯してしまうかもしれないんだと、私は肝に銘じております。それが私が。連合赤軍事件から、学んだ最大の教訓であります。

 連合赤軍事件がある限り、私は自分が究極の正しさを体得できるとは決して思わないでしょう。自分が過ちに陥らないですむんだと思いこむことも決してないでしょう。それが私にとっての連合赤軍事件の意味です。

 山田孝さん追悼会をできるだけ広く知ってもらうことで、連合赤軍事件で犠牲となったメンバー供養を山田さんゆかりの人達だけではなく、この日本社会全体で、してあげたいというのが私の願いです。

 そのような考えで見てみるならば、いまやその機は熟していると私はそう思いますが、そう思うのはきっと私一人だけではないでしょう。

 さて、山田孝さん追悼会をできるだけ広く知っていただこうと訴えるもう一つの理由です。それは私が現代若者と出会いたいと願っているからです。

 時代から突出することで、その時代を象徴する、いつの時代も時代はそのような若者を持っております。30年前は赤軍派をはじめ、革命の理想に燃えた若者が、若者の代表でありました。

 連合赤軍メンバーがあの時、山岳アジトにいて、私がいなかった。その違いは何でしょうか。連合赤軍へ走った連中は私なんかよりずっと純粋だったと思います。理想のためにその身を捧げて悔いのない精神を持っていた。その混じりっけのなさを純粋だと私は思います。もちろん連合赤軍だけではありません。気高い自己犠牲の精神に富んだ若者は当時世に溢れ返っていました。

 最近の若者はどうなのでしょうか。“武装闘争”でならした赤軍派時代の若者と、“ひきこもり”に代表される現代若者は一見大違いのようですが、よく見ると意外と共通点があることに気づきます。

 それは、現にある現実を受け入れられないこと。根本的に否定しているということです。

現にある社会に対して身をもって反乱を起こすという点も共通しています。ただ“ひきこもり”の方は自分がやっている氾濫を信じることのできません。連合赤軍派革命を信じておりました。一方は信じることのできない哀しさであり、一方は信じたが故の悲劇であります。

 30年を隔てた今、こうして対置してみると“信じることができない”若者と“信じた”若者に大差がないように私には思われます。むしろ、とてもよくにかよっている気がします。

 ここで少し飛躍があるかわかりませんが、次のような問いを出せば両方の若者に共通した内面が見えてきませんか。

   それは「自分で自分の人生を生きろ」という問いです。全共闘の学生は“自己否定”を言い出し、学生という身分をかなぐり捨てようとしました。以来30年の歩みでどのように自分の人生を切り開いてくることができたでしょうか。

 そもそも自分の人生を生きるとは、どのような生き方でしょうか。あれやこれやの職業に関わらず、また趣味やボランティア、はたまた政治活動や市民運動の領域にまで、人間社会が存在するところ、“この世の掟”が貫徹しています。私たちは誰も彼も、この掟に縛られ、そして他人を縛ってやろうと日々躍起になっております。そこで自分の人生を生きることは、このお互い縛りあっている“この世の掟”をいかに相対化できるかがポイントだと申せましょう。簡単に言えば、ちょっとゆるめるということです。“この世の掟”ではあまりにも漠然としています。“競争社会”といえば幾分なりともはっきりイメージができるものがあるのっではないでしょうか。

 “純粋”といい“一途”といい、それだけで尊い、美しいものですが、命短く、はかないという特徴があります。また、いかに大切にしようとも、それだけではどうしようもない、という限界をもまた持っております。私たちが、自分で自分の人生を生きることができたときはじめて、私たちは他人の人生も自分のそれと同じように尊重し、思いやることができるのだと思います。人間にとって何よりも大切な“愛”と呼ばれるものは、このように自分が自分の人生を生き切ってくという生き方の中からしか生まれてはきません。

 連合赤軍メンバーは純粋なものを抱いたまま逝ってしまいました。私はあとを託されたと思っております。彼らが内に持っていた純粋なる魂。その輝きをなくすることなく、私はいかにして自分のうちに取り入れ、生きていくことができるでしょうか。彼らの死を悼むことは私にとってはそのことを抜きにしてはなりません。  なおかつ、自分で自分の人生を生きるという私の模索は私の個人的なものではなく、現代を生きる若者と一緒に追求すること、彼らと繋がりながらやってこそ意味が あると私は思っています。

 「山田さん追悼会」には山田さんをご存知の方もそうでない方も、一人でも多く来ていただきたいと思います。また、会場には来られなくとも、ともに黙祷をささげて氏を悼んでくだされば、ありがたいことに思います。




《連合赤軍を考える》『山田孝さん追悼会』開催のお知らせ


R−30 30周年に際し連合赤軍問題を考える会
(略称:連赤問題を考える会)(仮)実行委員会のサイト